『患者と作る医学の教科書』
患者が語り、表現する─新しい視点の教科書発刊に注目が集まる
2009年9月4日、『患者と作る医学の教科書』の発刊記者発表会が開催され、2006年から編集に深く関わってきたヘルスケア関連団体ネットワーキングの会(VHO‐net)と『患者と作る医学の教科書』プロジェクトチームのメンバーによる、この教科書についての講演が行われました。患者さんが自らの経験を基に執筆するという画期的な医学の教科書の発刊に、多くのマスメディア関係者が集まり、活発な質疑応答も行われ、社会的な関心の高さを感じさせました。
ヘルスケア関連団体ネットワーキングの会と『患者と作る医学の教科書』プロジェクト
増田 一世 氏 VHO-net世話人 (社)やどかりの里 常務理事
VHO-netは、さまざまな疾病や障がいの団体のリーダーが、疾病や障がいによる立場の違いを超えて共通した課題を話し合い、知恵や情報を交換して横につながることにより、自分たちが変わり、社会も変えていこうとする集まりです。ワークショップを年1回開催するほか、ウェブサイトでの情報提供や、地域学習会の開催などを行っています。
VHO-netでは、2005年に国際医療福祉大学大学院の「患者の声を医療に生かす」という講義へ多くの仲間が患者講師として参加し、また2006年の第5回ワークショップでも「患者主体の医療の実現に向けて医学教育への参画を目指そう」という討議が行われ、患者としての経験知の蓄積を活かして医学教育へ参画する可能性と必要性を考えるようになりました。こうした私たちの思いと、酒巻先生の考えが一つになり、『患者と作る医学の教科書』プロジェクトが始まりました。私も、統合失調症とともに生きている3人と一緒に執筆しましたが、改めて学ぶことも多く、非常に貴重な体験になりました。
これは医学の教科書ですが、生活が書かれています。ぜひ、医療や看護、福祉を目指す人たちに読んでほしいというのが私たちの願いです。そして、別の疾患の体験を持つ患者にも、自分の疾患だけを見つめるのではなく、視野を広げ共通項を持つ意味で、広く使ってほしい、読んでほしいと願っています。
『患者と作る医学の教科書』がなぜ必要なのか
〜その意義と重要性
酒巻 哲夫 氏 群馬大学医学部附属病院 医療情報部 部長・教授/医師
そもそもこの教科書作りの発端は、群馬大学で「患者さんの声を聞く」という患者講師による講義を行い、患者さんでなければ伝えられない、表現できないものがあることを感じ、患者さんが主体となる教育によって「患者さんを理解する」という学生の感受性を育てることが必要であること、それを教育として成り立たせるためには教科書が必要であると思ったことでした。つまり、今まで「患者中心の医療」というキーワードはあっても、その教育の方法が確立していなかったのです。
教科書編纂の過程で、患者さんの持つ知識は豊富で、経験に裏打ちされていることや、病気が生活・人生と密着していることを改めて感じました。慢性疾患や稀少難病など特殊な事情にある患者さんの原稿も、個人的な体験や心情の吐露ではなく普遍的な内容であり、一般的な疾患の患者さんを理解するのに役立つ内容となっています。執筆した患者さんの側にも、医学教育・医療への理解、新たな役割への自覚などが生まれたのではないかと思います。
また、VHO-netという確かな組織のもとで、患者さんや家族、医師や看護師などさまざまなメンバーが同じテーブルについてプロジェクトを進めていくことには大きな力を感じました。
網羅性に欠ける点や、他の疾患との比較という視点に欠ける点などの短所は、今後、克服していきたいと考えています。2010年の2月には慶応大学医学部でこの教科書を使った実験講義を計画しています。将来の展望として、カリキュラムを患者さんが担当することを教育のスタンダードとして確立することを目指し、新たな教材、教育手法の開発を手がけ、もっと充実したものを作っていきたいと考えています。
『患者と作る医学の教科書』の意義
〜患者の観点から
大木 里美氏 中枢性尿崩症の会 副代表兼関東支部長
私は、群馬大学医学部で患者講師を経験したときに、医学教育の主役は疾患で、患者のことは学ぶ機会がないことを感じました。また暗記学習が多く、自ら考え応用する力が育ちにくいので、患者との間に認識のギャップが生まれてしまうのだと思いました。
『患者と作る医学の教科書』は、そんな現在の医学教育の問題を解消し、患者と医療者のよりよいパートナーシップに結びつくことを目指して、患者団体が日頃の活動を通じて収集した日常生活に関する情報や患者の声を集約し、患者の視点から客観的に制作したものです。患者と医療関係者が協働して制作したことで、医学教育の場でも活用できる良質な内容に仕上げることができたと思います。
大きな特徴として、医療者が患者の視点から疾患を考えられるように、患者からみた病気の説明、診断前、検査、診断後と順を追った項目立てとなっています。また、患者が必要とする病気や日常生活に関しての情報、患者の声と体験談を豊富に盛り込み、私たち患者が実際に体験している言葉で表現することを重視しました。本書が医学教育の場で活用され、多くの学生が患者の視点から、一人の人間としての患者を学び、患者とのよりよいパートナーシップを築くきっかけとなることを期待しています。
最後に、これから多くの医療系大学などで、多くの患者(患者団体)が、医学教育に患者講師として参加できることを希望しています。医学教育の発展のために私たち患者ができることを担い、患者の声から世論へ発展させ、医学教育の充実と患者中心のよりよい医療を実現したいと思います。
今後の医学教育について
〜教科書を医学教育にどのように活かしてゆくか
北村 聖氏 東京大学医学教育 国際協力研究センター 教授
日本の医学教育では、「プロフェッショナリズム」というものをきちんと教えていないと私は考えています。医師免許を持っていればプロフェッショナリズムを持っているというわけではありません。また、優れた技術を持つスペシャリストがプロフェッショナリズムを持っているとは限りません。そんなプロフェッショナリズムを若い研修医や学生にも教えていきたいと思っています。しかし、誰がどのように教えるのかという事や、教材もなく、評価もしにくいものです。患者さんに教材になってもらえればよいのですが、どこの医学部でも患者講師が実現するというわけではありません。
そこで、「プロフェッショナリズム」を学ぶのによい教材となるのが、この『患者と作る医学の教科書』ではないかと考えています。昨日今日に覚えた科学的知識は10年後には過去の知識になってしまいますが、今、身につけたプロフェッショナリズムは生涯にわたって医師として役立つということを理解してもらいたいのです。具体的には、倫理的実践や内省・自己認識、行動に対する責任、患者さんへの敬意、チームワーク、社会的責任などを教えていかなければならないと考えています。
日野原重明先生が「がんの診断はサイエンスであるが、がんの告知はアートである」とおっしゃっています。告知することを教えるのは、「プロフェッショナリズム」を教えるのとまったく同じだと考えています。今後の課題として、「患者さんが、医療者の言葉をどう受け取るのか」までを考えられるような医師を育てる教育を、こうした教科書を使って行っていきたいと考えています。
ファイザーの社会貢献活動
〜ヘルスケア関連団体支援活動について
喜島 智香子 ファイザー株式会社 コミュニティー・リレーション部
ファイザー株式会社は、社会を構成する企業市民として社会に貢献するために、NPO支援プログラム、ヘルスケア関連団体支援活動、ボランティア活動支援プログラムなどさまざまな社会貢献活動を行っています。
ヘルスケア関連団体支援活動では、患者団体個々の活動支援の他、ネットワーク作りを支援することがよりよい医療の実現に結びつくと考え、情報誌『まねきねこ』の発行や、団体の全国大会・総会などへの運営支援、ウェブサイトの立ち上げ支援などを行っています。もっとも大きな支援活動が、2001年から毎年開催しているヘルスケア関連団体ワークショップで、団体の違いを強調するのではなく、共通点を見出し、活動を支える情熱を共有するための、リーダー同士のピアカウンセリングの場となっています。
「医療関係者とのよりよいコミュニケーション」をテーマに取り上げた2006年の第5回ワークショップの頃から医療関係者の参加が増えてきました。また、地域学習会の開催や、国際医療福祉大学大学院乃木坂スクールの「患者の声を医療に生かす」というタイトルでの講座の開講、受診ノート作成プロジェクトなどさまざまな活動を行い、その中で『患者と作る医学の教科書』プロジェクトへと発展してきました。
VHO-netでは長い時間をかけて一緒に活動してきたので、お互いに信頼感の醸成ができ、今回の教科書の制作へとつながったと思います。出版に至るまでには苦労もありましたが、執筆者である患者さんや患者団体のみなさんがよく協力してくださったこと、また、教科書ができあがったことを喜んでいただけたことで、私たちも大変うれしく思っています。そして、この教科書が、よりよい医療の実現に役立つことを願っています。
それぞれの立場から見た『患者と作る医学の教科書』
医学教育者の立場からみた『患者と作る医学の教科書』
東京大学 医学教育国際協力研究センター 教授 北村 聖 氏
『患者と作る医学の教科書』のプロジェクトメンバーであり、日本の大学の医学部および研修医に向けて教育システムの改善に取り組んでいる北村教授に、この教科書の意義と医学教育にどのように活かすかをお聞きしました。
もともと医師として難病の患者団体の活動に関わり、患者さんがかなり情報を持っていることを感じていました。初発の症状などは当然ですが、治療途中の症状についても非常に詳しいのです。たとえば、再生不良性貧血の治療に一種の筋肉増強剤を使うことがあり、急に走るのが速くなったり、女性も毛深くなったりすることがあります。そういった情報の交換が患者団体の中では頻繁に行われ、初めて治療を受ける患者さんもあらかじめ知識を持って安心して治療が受けられることを経験していたので、このような患者団体の情報や知識の蓄積を形にすることは有意義であると考え、プロジェクトチームに参加しました。
この教科書の特徴や意義をどうとらえていますか
患者さん個人が書いた原稿そのままのものではなく、患者団体のリーダーが、会員のさまざまな声を集めて、感情にとらわれず客観的に書いているので、当事者でない多くの人にも読んでもらえると思っています。
また、プロジェクトチームのメンバーが一堂に集い、合宿のようにして原稿の読み合わせをした頃からはグループダイナミックス(集団力学、社会心理学の一領域)を感じ、きっといい教科書になると思いました。執筆者である患者さんたちも、どうしてもこの本を出版したいからと、プロジェクトチームの意見を受け入れて何度も書き直すなどしてくれたことをうれしく思っています。
医学の教科書としては、従来の教科書とはまったく違いますが、よい点、悪い点を含めて、やはり患者さんの教科書、患者さんの主観を理解する教科書だと考えています。
そして、そこには、大変な病気にかかったことを恨み暗くなったり、隠したりせずに、病気を受け入れて前向きに生きていく、いわば「患者道」が表現されています。患者団体は、誰かに相談しよう、仲間を作ろうと一歩踏み出した患者さんたちが集まるところだから、前向きなのだろうと感じています。
この教科書は、医学教育にどのように活かせるでしょうか
患者さんはこんなふうに感じる、こんなふうに思う、ということが疑似体験できるので、学生やまだ経験の少ない医療関係者には役立つと思います。
日本の医学教育は、まず解剖や基礎医学、生物学と学び、正常とは何かを学び、次に疾病、治療法を学ぶという、サイエンスを学ぶ流れになっています。しかしこの教科書は逆に、まず病気を診て、どうしたら治せるのかと考え、そのためには自分は何を勉強すればいいのかを考える流れになっています。学習者のモチベーションを高めるにはとてもよいと思います。
今後、執筆した患者団体が書き加えたいと言ってきたり、医学が進歩して新しい治療法が普及したり、あるいは、別の患者団体が載せてほしいと言ってきたりしたら改訂するなどして、この本そのものが発展してほしいと思っています。そのときは喜んで応援したいと思います。
そして、私が、もし新しい教科書を作るとしたら、今度は緩和医療を取り上げたいと考えています。とても難しいテーマですが、緩和医療の現場の医療者は患者さんとのコミュニケーションに生き甲斐を感じているので、患者さんの立場から、単なる体験記ではなく教科書という形で作りたいと考えています。