フランクルの「人生から問いかけられている」の意味について
フランクルが求めるコペルニクス的転回
ヴィクトール・E・フランクル(精神科医)は、ナチスの強制収容所に収監された体験から『夜と霧』1)と『死と愛』2)を著し、生きる意味や生きがいを見失った人に対する実存療法(ロゴテラピー)の必要性を提唱しました。生命の危機に遭遇したときに最も大切とされる苦悩の意味づけについて、フランクルは『夜と霧』で次のように述べています。
人間の生命は常に如何なる事情の下でも意味をもつこと、そしてこの存在の無限の意味はまた苦悩と死をも含むものである…1)
生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない1)。
危機に直面した時、人は「なぜ、わたしがそんなことに?」と危機が訪れた原因を求めようとします。しかし、戦争や災害、病気によるものでは、その原因を見出すことが困難であったり、原因に対して個人ではどうしようもないことも多いのが現実です。訳もわからずに不幸が訪れてしまい、それを避けようがないという不条理の世界なのです。
そこで、フランクルはこのような時に発想を根本的に転換すること、すなわちコペルニクス的転回を求めました。天文学者であるコペルニクスは、16世紀に従来の天動説(地球中心説)に対して、太陽中心説(地動説)を提唱しました。彼は、地球が宇宙の中心であるという従来の考えを覆し、太陽を中心に地球が回っているという新しい視点を唱えました。このような根本的に視点や考え方を転換することをコペルニクス的転回と呼びます。
危機の原因と危機がもたらす苦悩の意味の違い
フランクルは、生きることに意味があることを前提としたうえで、現在の危機に対してどのように応えられるのかが問われていると発想を転換することを奨めています。そのことが、過酷な収容所の生活の中であっても、苦悩の意味を見出した人が生き延びられたことを目撃し、体験したことから得られた結論だったのです。
危機が訪れた原因を求めること(whyの疑問)と危機がもたらした苦悩の意味を求めること(whatの疑問)は、同じ疑問のように受け取られやすいのですが、視点が全く異なります。前者では、原因を自分の外、あるいは他者に求めています。それは信仰をもつ人にとっての、「神はなぜ私にこんな罰を与えるのか」という疑問や怒りかもしれません。そうではない人にとっては、過去の行為に対して原因を求めようとするかもしれません。それに対して、後者(whatの疑問)では、「苦悩に対して意味づけをできるのは自分自身であり、自分の活動である」というセルフマネジメントの姿勢が根底にあります。
苦悩の意味を求めるのはなぜか?
それでは、人が苦悩に対して意味を求めようとするのは、なぜなのでしょうか?
フランクルの『意味への意志』 3)では、“あなたの絶望のために、あなたは絶望する必要はないのです。あなたはこの絶望を、私が「意味への意志」と呼んでいるものの存在のあかしととるべきです。そしてある意味では、意味へのあなたの意志というまさにその事実が、あなたの意味への信仰を証明しているのです。”というような内容が書かれています。
現在の人間にとっては、活動するにあたって意味を求めることはデフォルト(初期設定)状態になっています。それは、人間が道具を創り出したこと、農耕社会で種まきや草取り、施肥などを行ってきた文化の中で、目的をもち計画を立てて活動してきたことの結果です。収獲、仕事、勉強など努力するにあたって、意味をつけたうえで活動することが当たり前なのです。
したがって、人間は活動する際に、意味を求めざるを得ない思考になっています。そのことをフランクルは意味への信仰と呼んだのです。人間がもつ文明の中で長い時間をかけて培ってきた価値観なのです。
このことを逆の視点から見ると、苦悩に対して意味を求めているのは、苦悩を通して活動しようとする意志があると解釈することができます。それが意味への意志であり、苦悩を通して活動しよう、生きようとしていることの表れなのです。
苦悩への意味づけをする意志
苦悩に意味づけするためには、それまでの価値観や人生観を書き換える作業に取りかかることが必要です。その作業は、たいへん困難ではありますが、他人任せにすることはできません。
もし私がそれをなさないのであれば、誰がそれをなすというのだろう。そして、もし、私がそれをたった今なさないのであれば、私はいつそれをなすべきであろうか。「もし私がそれをなさないのであれば」この言葉は私自身の独自性を示しているように思われる4)。
人は、人生で遭遇するさまざまな状況に対して応答しつつ生きています。その応答の仕方は人それぞれによって異なります。その人の生活歴の中に個人特有の応答の仕方があり、それを見つけることが必要なのです。過去のさまざまな困難の中で、どのように感じ、どのような感情が沸き上がり、どのように思考し、何を行ってきたかを振り返ることで、その人の大切にするもの、人生の価値が見つけられます。過去を振り返る中で、その人が心の底(魂)から大切にしてきたもの、本心から欲しているものを見つけ出すことが可能となるのです。
生きる意味を見つけるためのヒント
フランクルは人生に意味を見出すためのヒントとして、三つの価値があると述べています。創造価値、体験価値、態度価値により、どのような人も、どのような状況下にあっても、生きる意味を見出すことができると、強制収容所の中の自分の体験と人々の観察を通して語っています。この三つには順序があり、態度価値が最後までどんな時にも残されている価値であるのです。
創造的に価値を実現化することができる活動的生活[創造価値]や、また美の体験や芸術や自然の体験の中に充足される享受する生活が意義をもつ[体験価値]ばかりでなく、さらにまた創造的な価値や体験的な価値を実現化する機会がほとんどないような生活│たとえば強制収容所におけるがごとき―でも意義をもっているのである。すなわちなお倫理的に高い価値の行為の最後の可能性を許していたのである。それはつまり人間が全く外部から強制された存在のこの制限に対して、いかなる態度をとるかという点において現われてくるのである[態度価値]1)。
※引用文中の青色の文字は、加藤氏による注釈です。
結局、フランクルのいう「意味への意志」は、自分の本当の願い(魂願)、その人が人生の中で最も大切としたいもの、大切にする価値を見つけ出そうとする力でもあり、その人として生きようとする力でもあるのです。そして、それは自己を超越したもの、つまり、自己中心的な欲求を満たすだけでなく、他者のために生きることや、自己を超えた何かに奉仕することを通じて、真の意味を見出すことができると主張したのです。
人生から問いかけられている意味
フランクルは、「人生に意味を問うのではなく、人生から問われている」というコペルニクス的転回を、『死と愛』の中で次のように表現しています。
すなわち人生そのものの意味に関する問いは無意味である。なぜならばその問いは、もしそれが漠然と人生を意味し、具体的な「各々の」実存を意味しないならば、誤って提出されたものであるからである。(中略)すなわち人生自身が人間に問いを提出するのである。人間は問いを発するべきではなくて、むしろ人生によって問われているものなのであり、人生に答えるべきなのである。しかも人間が与える答えは具体的な「人生問題」に対する具体的な答えでのみあらねばならない2)。
上記の新版翻訳本では、一つ目に書かれている「人生」とその他の「人生」は、同じ単語でも表現するものが異なっています。一つ目に書かれた「人生」はその人個人のものであり、それ以外の「人生」は超越者や神などに相当する概念が当てはまるのではないかと考えられます。実際に、フランクルは『それでも人生にイエスと言う』 5)の中で、問うてくる者、問いを発してきて答えるべき相手として、次のような表現をしています。
ある人はこの責任を自分の良心に対して感じたかもしれません。べつの人は神に対して、またべつの人は離れたところにいるひとりの人間に対して、この責任を感じたかもしれません。このような相違は大した問題ではありません5)。
つまり、答える対象の「人生」には、「神」と「自分の良心」という二つの概念が含まれていること、そして、それは大した問題でないとフランクルが述べているのです。しかし、「神」と「良心」は日本語では相互に置換はできませんし、「人生」と呼んでまとめることもできません。「神」と「良心」を包括する概念が、フランクルが考えている答える相手なのです。
新版翻訳書において人生と訳された言葉は、フランクルのドイツ語原文では“Leben(英語のLifeに相当)”と表現されたものです。前述した引用文の一つ目以外の「人生」は「人生」と訳されると日本語として意味をとることができずに、あいまいなままに放り出されてしまいます。
わたしはLebenを旧版と同様に「生命(いのち)」と翻訳すれば、一つ目に書かれた「人生」とその他の「人生」両者を包含する訳語としてより適切ではないかと考えます。「いのち」であれば、超越者や神、あるいは個人の良心と解釈することも、人生と解釈することも可能です。
結局、フランクルは「いのち」からの問いかけに対して答えることが苦悩の意味づけであることを説いていたのだと、わたしは考えています。
参考図書
1)ヴィクトール・E・フランクル著/霜山徳爾訳 『夜と霧』 みすず書房1985年(初版1956年)
2)ヴィクトール・E・フランクル著/霜山徳爾訳 『死と愛【新版】ロゴセラピー入門』 みすず書房 2019年
3)ヴィクトール・E・フランクル著/山田邦男監訳 『意味への意志』 春秋社 2002年
4)諸富祥彦『人生に意味はあるか』講談社現代新書 2005年
5)ヴィクトール・E・フランクル著/山田邦男・松田美佳訳 『それでも人生にイエスと言う』 春秋社 1993年
加藤 眞三さん プロフィール
1980年慶應義塾大学医学部卒業。
1985年同大学大学院医学研究科修了、医学博士。1985〜1988年、米国ニューヨーク市立大学マウントサイナイ医学部研究員。その後、都立広尾病院内科医長、慶應義塾大学医学部内科専任講師(消化器内科)を経て、慶應義塾大学看護医療学部教授(慢性期病態学、終末期病態学担当)。慶應義塾大学名誉教授。
■著書
『患者の力 患者学で見つけた医療の新しい姿』(春秋社 2014年)
『患者の生き方 よりよい医療と人生の 「患者学」のすすめ』(春秋社 2004年)