傾聴について考える
前回ご紹介したアーサー・W・フランクさんの本の中に、次のような場面があります。
睾丸がんになって、その後寛解(ひとまず病状が落ち着いた状態)に至った彼は、あるがん患者グループの会合に参加します。その会合では、参加者がひとりずつ、自分の名前と、どんな種類のがんにいつかかったのか、そして時には近況もつけ加えて、順に話していくということが行われていました。そして、ほとんどの人は、最後に、声の調子を上げて、「今は元気です!(I’m fine!)」と締めくくっていました。
多くの人は寛解の状態にありましたが、そこにひとり、まだ治療を継続しているある女性が参加していました。彼女は、自分自身のがんについて話すうちに泣き出してしまいました。すると、これに対してグループは、彼女の話をそこで終わらせて、隣に座っている次の話し手に自己紹介を始めるようにうながしたのです。次の人は、やはり簡潔な自己紹介のあとに「今は元気です!」と語りました。そして、そのあとはもう誰も、この話の中断について意見を言わなかったし、治療中の人の苦しみに触れるところへと話を戻す人もいませんでした。
フランクさんは、この出来事について、グループは「回復の物語(the restitution narrative)」(前回連載参照)を好み、それに合わない彼女の語りを排除したと論じています。つまり、これで彼は患者グループにすっかり嫌気がさしたようで、この本では、病いに傷ついた個人に対して患者グループが助けになったという話は、それ以降出てきません。私は、それが少し残念で、もうちょっと広く長い目で患者会を見ればいいのに、と思ったものです。
ただ、何が彼を失望させたのか、ここでもう少し考えてみましょう。皆さんは、この患者グループの会合に関して、問題があるとすればどこだと思いますか?
まず目につくのは、泣き出してしまった人に対して、彼女の話を打ち切って次の人に発言をうながした、というところです。そんなことをしないで、ずっと待っていればよかったのかもしれません。しかし、実際にそうできるものでしょうか。もちろん、早々に話を打ち切ってしまうのはひどすぎるとしても、逆にあまり長く待ちすぎるのも、気まずくなってしまうかもしれませんし、他に時間を割くべき参加者がいるかもしれません。
そこで、もう一ヶ所ある問題にも目を向けてみましょう。それは「そのあとはもう誰も、この話の中断について意見を言わなかったし、治療中の人の苦しみに触れるところへと話を戻す人もいなかった」という部分です。仮に、彼女の話を打ち切らざるをえなかったとしても、あとで、たとえば「今日は参加されてどうでしたか?」とか「いまどんなことを思っていらっしゃいますか?」と再度聞いてみることはできるのではないでしょうか。あるいは、そうする時間さえなかったら、会合が終了したあとに同様の言葉をひと声かけてあげることはできるかもしれません。
このことに関して、次のような経験があります。ある難病患者会の集会で、その日初めて参加されていた女性は、3年前から手足の動きに異常を感じ、最近やっと診断を得ていました。その間、ずいぶんたくさんの病院を回られたようです。自己紹介の際、彼女は症状の進行のことや、階段の上り下りには特に気を配っていること、自宅に手すりを付けたことなどを語りました。非常に冷静な語り口で、しっかりと病状を分析して対処しているように見えました。
しかし、私は、彼女が自分の病名がわかってどう思ったのかを一切語らなかったことに少し引っかかりを覚えて、集会の最後に、司会者でなかったにもかかわらず思い切って、「いろいろあって診断を受けられたようですが、いま率直なところどんなふうに思われていますか」と質問しました。すると彼女は、病気を受け入れていかなければとは思うのだが、気持ちは揺れ動く、この先どうなるのかわからない、などと言いながら泣きじゃくり始めたのです。しばらく、彼女が嗚咽する音だけが部屋に響きました。
その時です。ひとりの男性参加者が「私も同じ!」と彼女に言ったのです。私は少し驚きました。というのも、それまでの彼を見ていると、とても会話に不器用そうで、失礼ながら、あまり他人の話を聞くタイプではないように感じていたからです。泣いていた彼女は、彼に向かって少し会釈をしただけでしたが、その後「なにもわからない状態だったけど、今日はいろいろな方と会って、少しだけわかったような気がします」と参加した感想を述べられました。(その患者会にも入会されたようです。)
これらの話は、ピア・サポートのテーマとしてしばしば取り上げられる「傾聴」に深く関係しています。「傾聴」というと、どうしても個人の態度やしぐさの問題とイメージしやすいかもしれません。もちろん、場面によってはそれも大事になってくるでしょうが、社会学的にみると、病いを得た人が、少し言いにくさを感じるような気持ちでも吐き出せるような場がどの程度あるのか、という問題としてとらえることができます。そうした場が増えれば、患者には自分なりに立て直すチャンスが広がります。だから、そのような場を豊富にすることで、私たちの社会は病いに耳を傾けられる社会になっていけるわけです。その際、先に挙げた例で私が重要だと思うのは、そこに目を見張るような傾聴の技術や達人が存在しなかった点です。そこにあったのは、ただ他の参加者の思いへの関心や共感をなんらかの形で伝えることだけでした。そうしたちょっとしたことの組み合わせで、傾聴の場が生まれるものなのかもしれません。
伊藤 智樹 氏 プロフィール
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、富山大学人文学部人文学科社会文化コース(社会学)准教授。
■著 書
『ピア・サポートの社会学』(編著/晃洋書房 2013年)、『セルフヘルプ・グループの自己物語論』(ハーベスト社 2009年)、 『〈支援〉の社会学』(共編著/青弓社 2008年)
※伊藤先生の活動研究については『まねきねこ』 第23号「WAVE」でもご紹介しています。 ぜひご覧ください。